心肺蘇生術に関する思い出

※この記事には梨泰院の圧死事故に関連する内容が含まれます。

※この記事には露骨な表現、残酷な表現が含まれます。苦手な方はご留意ください。

※この記事に登場する症例は全て伝聞をもとに構成した架空のものです。

 

 夜中にふと目が覚めてスマホを弄っていたら、こんな記事が目に飛び込んできた。

news.yahoo.co.jp

 梨泰院で起きた圧死事故で、その場で救助に携わったと思われる看護師の追悼メッセージが韓国で話題になっているという。

「短くはあったけれども、間近で最後を一緒にいてあげられず申し訳ない思いが大きいです。私がした心肺蘇生術が痛くなかったですか。間近で手でも握ってあげて目を閉じる道が孤独でないように助けてあげるべきだったのに……私が最後に一緒におられた3人の方、安らかにお休みください。あまりにも美しかった人生の終わり、安らかにお休みください。ある看護師より」

 

 どれだけ知識と経験があっても、一人の人間にできることは限られている。150人もの若者が心肺停止となったその場に医療者として居合わせ、設備さえ整っていれば救えたかもしれない命が少しずつ消えていくのを見守るしかなかったというのは、本当にやるせなく苦しい体験だったはずだ。

 

 私の心肺蘇生術は痛くなかったですか。

 妙に冴えてしまった頭に、医療者として自分がこれまで行ってきた蘇生行為のことがふと蘇ってきた。

 僕は今年医者2年目の研修医で、去年は地方の3次救急病院で1年目として勤務した。今年からは3次救急の現場を離れ、来年からはさらに救急対応の少ない診療科に進む予定だ。経験症例数はまだまだ少ないし、まして救急医療について語る資格など全くないのだけれど、だからこそ自分がしてきた蘇生行為は一つ一つ鮮明に記憶に残っている。

 最初に確認しておきたいのは、質の良い胸骨圧迫は救命の基本中の基本ということだ。両手を合わせ、胸の真ん中を5cm沈み込む程度の深さ(小児なら胸の厚みの1/3)まで、1分間に100-120回のペースで圧迫する。梨泰院の事故でも、胸骨圧迫が絶え間なくなされたおかげで救命に成功した事例がいくつも報告されている。

 詳細なプロトコルは本筋から外れるので省略するが、救急医療の現場では「迷ったら押せ」と教わる。倒れている人に胸骨圧迫をするのは勇気がいるけれど、呼吸が異常あるいは脈が止まっていると判断したら、迷うことなく開始しなくてはいけない。自分の胸骨圧迫が痛いのではないか、苦しいのではないか、本当は必要ないのではないかと思って躊躇うことがあってはいけない。もし本当に心臓が止まっていたなら、迷っているその一瞬一秒の間にも救命できる確率が着実に下がっていくからだ。そして明らかに自己心拍が再開したことがわかるまで、胸骨圧迫は絶え間なく続けなくてはならない。

 もし開始した後に手を退けたりする様子があれば、その段階で中止すればいい。

 

 冒頭の記事の見出しが目に入ったとき、胸骨圧迫をする時に患者さんが痛いか苦しいかというのはあまり考えてこなかったなと気づいた。意図的に考えないようにしてきた、と言ってもいい。「迷ったら押せ」と何度も怒られてきたからというのが理由の一つだろうが、今まであえて考えないようにしてきたそれ以外の理由が、自分の少ない経験の記憶と共に脳裡に浮かび上がってきた。

 

***

 

 その日の当直はとにかく忙しかった。夕方5時から深夜2時過ぎまで重症軽症を問わず患者さんがほぼ切れ目なく続き、控室で休む暇がほとんどなかった。眠い目をこすりながら軽食を取ってカルテを書き上げると4時近くになっていて、スクラブを着たまま当直室のベッドに倒れ込む。当直室はいつも一人で使うのにベッドはなぜか二段ベッドで、寝心地は酷い代物だった。PHSを枕元に置き、次の患者が来るまで少しでも休息を取ろうと努める。不快感を覚える方もいるだろうが、緊張が取れずに眠れない時はよくDMMで無料のAVのサンプルを眺めていた。どんな時でも、性欲はざわつき緊張した心に少なくとも一定の形を与えてくれた。それがどういう形であるにせよ。

 大体寝入ったか寝入らないかのタイミングで、3次症例の応需を告げる電話で叩き起こされる。

 当直室を飛び出して、重症ベッド前でフルPPEを装着しながら上級医に症例を確認する。70代の女性で、現段階では交通事故後に心肺停止になっていることしか分からない。

「場合によっては開胸、開腹が必要になるかもしれないね」と上級医が言う。

 しばらくすると救急車の音が聞こえてくる。救急のエントランスの扉が開き、救急隊に胸骨圧迫されながら患者さんが入ってくる。

 救急隊からの引き継ぎ、同伴家族の有無および受傷状況の確認、除細動器の装着、ルートの確保および採血、各種検査のオーダー。その間にも胸骨圧迫は絶え間なく続いている。名前、家族の連絡先は不明、既往も一切不明。10分ほど前に徒歩で交差点に侵入して右折車と接触し、救急隊到着時は意識があったものの救急車内でCPA(心肺停止)に陥ったことがわかる。骨折は複数箇所に認めるものの、体表からわかる活動性の出血はない。現時点でのエコーでは腹腔内の出血を示唆する所見は認められない。心肺停止の原因は、外傷性の大量血胸ないし心タンポナーデによる閉塞性ショック(心臓が圧迫され、血を送り出せなくなる状態)なのではないかという話になる。

「よし、開胸しよう!」と上級医が言う。

「今から開胸するから、先生は清潔の手袋を履いて心マして。心臓を触ったら、心尖部に小指を当てて、小指から順に締めていくような感じでやればいいから」

 無影灯のスイッチが入り、重症ベッドの上に簡易的な術野が展開される。看護師がメスと、およそ人間に使うのには似つかわしくない頑丈そうな鋏を持ってくる。

 一切の躊躇なく、上級医は患者の体にメスを入れていく。肋骨が鋏で断ち切られ、胸膜が切開されて胸腔が露出すると、そこに溜まっていた大量の生暖かい血が一気に流れ出してくる。縦隔に入り心嚢が切開され、心臓が体表から手を入れて触れるようになったタイミングで、上級医がこちらに合図を送る。学生時代に読んだ筒井康隆の短編小説が頭をよぎる。

 指示されたように、開胸された部位から手を突っ込む。心停止して間がないから、体の中はまだ暖かい。肺と血溜まりの奥に、手のひらに収まるぐらいの心臓があるのがわかる。心臓血管外科の研修で、動いている心臓の力強い拍動に触れたことを思い出す。右手の指で中の血を絞り出すようなイメージで、心臓マッサージを開始する。

「遅い!アンパンマンマーチのテンポだ!」上級医が叫ぶ。術野は血だらけで、患者さんの体からは際限なく血が溢れ出してくる。後ろで上級医がアンパンマンマーチを口ずさむのが聴こえる。「そうだ、おそれないで、みんなのために、」右手の中には生暖かい心臓の感触がある。それは止まってしまっていて、もはや独りでに動き出すことはない。

 

 心拍と心電図の確認を数サイクル行った後、結局その患者さんの自己心拍が戻ることはなかった。静かになった部屋で、胸壁の傷を元通りに縫合しながら、開胸心臓マッサージを行って実際どれぐらいの確率で救命できるのか聞いてみた。

 20年勤務していて救命できたのは1例だけだと上級医は答えてくれた。その1例のためだけに、どれだけ絶望的な症例でも躊躇なく開胸するのだと。

 

***

 

 不思議なもので、その時は自然にこなしていて特に奇妙とも思わなかったことが、時間を置いてみると途轍もなく奇妙に思えることがある。医師になってからの1年半で開胸心臓マッサージの機会があったのは一度だけで、おそらくこれからの医師人生で二度目が訪れることはないだろう。

 患者さんに侵襲を加えるとき、それが本当に必要な侵襲なのであれば痛みを与える不安から躊躇することがあってはいけないと思っている。医療者にとって大事なのは緊迫した場面で正しく機能することであって、不安に足をすくませることではない。平時に痛みに寄り添う姿勢が必要なのは当然のことだとしても。

 だが、そうやって心を硬直させ、何物にも動じない状態を作り出すことで、心からあるべき柔らかさが失われていくような気がするのも確かだ。患者さんの痛みに思いを馳せる共感性と、一切の躊躇なく蘇生的開胸術を行える能力との間には控えめに言ってそれなりの距離があるし、過酷な現実を目の前にして前者が犠牲になるのはある種自然なことに思える。痛みのことを考えて手が止まってしまうなら、痛みのことを考えなければいい。

 典型的な防衛機制だと言われれば、反論の余地はないだろう。

 

「私の胸骨圧迫は痛くなかったですか」という文言を見た時、率直に言って少し動揺した。不意打ちを喰らったような気分になった。だから朝の6時になっても寝付けずにこんな文章を書いている。

 脳血流がないのだから失神しているのと同じ、そもそも痛みを感じられる状態ではないのは小学生でもわかる理屈だ。そんなことが言いたいんじゃない。情緒面の動揺はどうすることもできない。この気持ちはどこに持っていったらいいのだろうと思う。胸骨圧迫の形にへこんだ胸郭を見て何も思わないとしたら、それは何かが欠落しているんじゃないかと言いたくもなる。

 

「短くはあったけれども、間近で最後を一緒にいてあげられず申し訳ない思いが大きいです。私がした心肺蘇生術が痛くなかったですか。間近で手でも握ってあげて目を閉じる道が孤独でないように助けてあげるべきだったのに……私が最後に一緒におられた3人の方、安らかにお休みください。あまりにも美しかった人生の終わり、安らかにお休みください。ある看護師より」

 

<参考資料>

acls.or.jp